名古屋高等裁判所 昭和25年(う)1457号 判決
原判決が罪となるべき事実として認定したところは、被告人が昭和二十四年三月二五日頃東京都港区赤坂青山南町二丁目六五番地吉川はま方に於て大里正夫より商工省繊維局割当主任官近藤和彦名義の綿糸十梱の綿糸需要者割当証明書(以下需要者割当証明書という)の偽造のもの一通を正当な取引に於ては何等の価値なきに拘らず不当に高価なる代金七十万円にて買受けたというのであつて、原判決は此の事実を物価統制令第九条の二の不当高価取引の罪に問擬した。仍てその当否を審究するに抑々物価統制令第九条の二は、同令第一条にいう「物価の安定を確保し以て社会経済秩序を維持し国民生活の安定を図る」ために、同令第三条にいわゆる統制額の定めのないものについてまでも広く一般に「価格等は不当に高価なる額を以て之を契約し、支払い又は受領することを」禁じ、以て価格を統制せんとするものである。而して同条にいわゆる「不当に高価なる額」であるかどうかということは、第三条の場合のように基準となる価格が公定されていないから、具体的事案において個々に判定せられなければならないが、之を判定する標準は社会経済秩序維持の適正価格でなければならない。換言すれば、先づ此の適正価格が幾何であるかを判定し然る後に当該事案の価格を比較することによつて始めてその価格の当、不当を決定することができるのである。そこで本件において偽造の需要者割当証明書につき適正価格の有無を考究しなければならないのであるが、その前提として先づ真正の需要者割当証明書の適正価格を考えて見よう。元来適正価格とは適法な取引におかれたところの社会経済秩序維持の為めの相当な価格と解するが、需要者割当証明書は指定生産資材割当規則第一五条によつて法律上絶対に譲渡が禁止せられ如何なる方法によつても譲渡の認められる途はないのであるから、需要者割当証明書としてはそれが適法な取引におかれるということは全然あり得ず、従つて需要者割当証明書としては性質上適正価格なるものは全くあり得ないものというべく、即ち需要者割当証明書については、その社会経済秩序維持の適正価格なるものは全く考え得られないわけである。故に仮りに需要者割当証明書が需要者割当証明書として指定生産資材割当規則第一五条に違反して譲渡せられ、その対価が支払われたとしても、その対価即ち価格の当、不当を決定する標準となるべき適正価格がないからその取引は(臨時物資需給調整法違反の罪を構成すること勿論であるがその外に更に)物価統制令第九条の二の取締対象とはならないものといわねばならない。蓋し価格の統制を紊る行為を取締るというのは、社会経済秩序維持の適正価格の存在するものについてのみ考えられることであつて、性質上その維持すべき適正価格のないものについては、価格の統制を紊るという観念は全く容れる余地がないからである。論者或いは、需要者割当証明書の売買に因り該証明書の表示する現物の取引に際し価格に影響を及ぼし以て価格の統制を紊る危険があるから斯る売買も亦物価統制令第九条の二の取締の対象となるというかも知れないが、元来需要者割当証明書の売買と、その表示する現物の売買とは別個独立の行為であつて、その現物には社会経済秩序維持の為めに統制維持せられなければならないところの統制額乃至適正価格が存するけれども、需要者割当証明書自体には左様に統制維持せられなければならない適正価格が存しないということを考えなければならない。もとより因果の関係をたどれば需要者割当証明書の売買が、その表示する現物の取引に関し価格に影響を及ぼすこと、従つてその現物につき維持せらるべき価格の統制を紊るという結果を来すこともあるであろう。然しながら此の場合需要者割当証明書の売買行為は、その表示する現物の取引における価格違反行為の予備的行為に過ぎないのであるから、需要者割当証明書の売買行為自体は物価統制令第九条の二の犯罪を構成するものではない。
さて本件偽造に係る需要者割当証明書は法禁物としてその譲渡性は絶対に法の認めないものであるから、かかる偽造の需要者割当証明書自体につき法によつて統制維持しなければならないような適正価値の存しないことは上述のところによつて明らかであろう。若し又偽造の需要者割当証明書はこれを真正な需要者割当証明書に準じて考えるべきものとしても真正な需要者割当証明書に適正価格の存しないこと上述の通りであるから、従つて此の点からしても偽造の需要者制当証明書は亦物価統制令第九条の二の取締の対象とならないといわねばならない。原判決は本件偽造の需要者割当証明書は全く価値のないものであるのに拘らず代金七十万円で買受けたのは不当高価であるというのであるが、物価統制令第九条の二にいわゆる不当高価とは適正価格の存在を前提とすべきものであつて、当該物資について社会経済秩序維持の為め統制せられねばならないところの適正価格の存する場合において問題となるべきものであること上述の通りであるから、価値の有無ということだけでは、その価格の当、不当を決定する標準とはならないのである。或いは茲に「価値のない」というのは即ち適正価格が零であるとの趣旨であるというかも知れないが、零の価格ということは意味がないのであるからそれは所詮「適正価格が存在しない」ということを「零である」と言い換えたに過ぎない。故に物価統制令第九条の二にいわゆる価格の当、不当を決する標準となるべき適正価格が存在するということにはならないのである。
されば原判決が本件偽造に係る需要者割当証明書の売買を以て物価統制令第九条の二に違反するものとしたのは同条の解釈を誤つて罪とならない事実を罪とした違法があつて破棄を免れない。